昭和50年 2月3日 朝の御理解 入力者【明渡徳子】
④・⑧・⑫
御理解第45節「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ」
私自身今年はいよいよ、おー、神様が下さろうとなさっておられるおかげを、どうでも頂きとめたいと、まあ念願させて頂いております。為には、まあ私なりに、言わば水も漏らさぬおかげの受け物を、と思うのですけれども、そこは生身のことでございますから、どこにどう言うお粗末ご無礼が出来るか分かりませんけれども、今日のこの御理解を頂いて、んー、油断をすな。慢心が出るとおかげを取り外すと、ね。
頂くどころか頂いておるものまでも取り外すような結果に終わっては、相済まんことでございますから、いよいよ油断なく信心を進めて行きたいと思います。昨日、午後の奉仕を終わって、部屋に下がらせて頂いたら、子供達が何かそこで飲んだり食べたりしたようで、もうコップがそこに置いてある、茶碗がそこに。もうほんとにあたくしが、言うならば何て言うですか、まあ清潔好きと言うことが、家内が分かっておるのにも関わらず、しかもあたしがもう下りてくる時間でもあるのにも関わらず、子供達が寝ておった寝床はそのまま。
茶碗はそこにある、コップはそこにあると言うような状態の中に、あたくしが、これはほんとにあたしがどげんすれば気分が良いか、どげんすれば気分が悪いかということは、それこそ長年連れ添うておって家内が分かりそうなものに、と思いました。だからそこに家内が現われておれば、おそらく文句を言うたでしょう。
言ってもどんなに散らかしてもよいけれどもね、散らかったならはわいておけ。物を使ったら、または使ったところにしまっておけ。これだけはもう癖を付けとかなきゃいけん。俺の気分のはお前が分かっておるじゃないかと、言うたに違いはないです。でも幸い、家内がおりませんでしたから、まあ言わんですむと言うよりも、その瞬間あたくしの心の中にひらめいたこと。
⑫●ほんとに寒修行もこうやっておかげを頂いて、もういよいよ明日1日と言うおかげを頂いた。まあー、そろうのない、いー、寒修行でありたいと願わせて頂きながら、振り返って見ると、あそこも遅なってあった、ここもご無礼であったと思うところが感じられます。そん時にあたくしの心によぎったものは、んー、その欠けておったもの、そろうであったもの。言うならば受け物の、受け物の目の粗かったところをです。
例えばこう言う場合にでもね、不平を言うたり不足を言うたり、小言を言うたりしないことをもってでも、1つ、受け物をいよいよ完璧にしていきたいと思わして頂いたら、自分で取り片付けが出来ます。取り片づけしながら、心の中がありがたーくなるんです。不思議ですね。ほんとにもう散らかしまわしてからっち、小言言いながら片付けたもんじゃですね、そんなありがたい心は生まれてこない。
おかげの受け物がそろうであった。目が粗かった、ね。だからそこをです、いよいよ完璧を、うー、と言う事はできんにしても、完璧をやはり目指さなければいけません。を目指させて頂いて、まあこういうところにでもです、不平不足を言わんですむ、小言を言わんですむような、あー、おかげを頂かせてもらう。いわゆる心行であります。●
自分の心の中にそれを、おー、頂くことによって、言わば期せずしてあたくしの心の中に違った喜びがまた頂けれる。はあ、これありがたいなと。まあこの一言二言じゃない。あたくしは昨日、それから色々と考えさせて頂いた。いよいよ心行とこう言われるが、もう心行の深さ広さは、もうほんとに驚くです。なるほどー、表行を言わば、あー、廃して、そして心行1本で一生涯かかっても、なかなかな苦労だろうと思うのですけれども。
例えばあたくしどもの、おー、先だってあるところの福岡の吉木先生のみ教えであるところの、「馬鹿と阿呆で道を開け」。これはもう合楽の信心になっておるように、繰り返し何十年間言い続けて来、また自分もそれを行じて来たつもりでございますけれども。本気であたくし馬鹿と阿呆になる。その心、その心掛けが心行です。
久留米の初代が、信心の芯として教えておられたと言う「信心辛抱さえしたら物事整わんことなし」と仰せられたが、なるほど整わんことはないだろう。この信心辛抱ができたら、ほんとに整わないはずはないなと最近思います。もうこんな素晴らしい心行はありませんね。ね、じっと信心辛抱。信心によって辛抱させて頂く。ね。
いわゆる実意丁寧神信心、なるほど実意丁寧神信心にならなければ信心辛抱はできません。そして言うなら期せずして頂けるのは、さっき申しましたように、行の上に頂き現すところに、次には期せずして頂けれる喜びが素晴らしいのです。普通は辛抱できない。そこを例えば辛抱さしてもらうこそ辛抱だ。そこの例えば向こうの方にはね、もう思いもかけない喜びが待っておると言う事です。
なるほどこの生き方で行くなら、物事成就せん、整わん事はなかろうと思います。これを私は、まあ半分でなからなければこのみ教えは守られんのだとさえ思うておったんですけれど、そうじゃない。三井教会の初代が言うておられるね、「こりを積ますな。こりを積ます。こりを積ますな、こりを積むな。身を慎め」。もう自分がこりを積まんですむという事は、自分がこり積まにゃいいのですから、自分のとこ、手元のところで、えー、そこんところは「金光様金光様」と、こりを積まんですむ。
言うならばお題目唱えて、えー、おればですね、こりを積まんですむおかげを受けられるけれどもね。⑫●あたくしの生き方を見たり聞いたりしてこりを積む人があるなら、それはもう仕方がないと思うておった。ところがね、こういう事では相手がこりを積むだろうと。こういうことをしたら相手がこりを積むに違いはないと、例えばそこん所を詮索して参りましてね。
こういうことでは人がこりを積むだろうというところを思うことが心行です。あたくしの今日からの、例えば心行の中にですね。こりを積むなという事は、まあ本気で稽古さして頂いたが、積ますなというところは、これはもう相手が積むならしようなか、とこう思とったけれども、そうではない。
言うなら相手の誰彼がですね、こう言う生き方をさせて、例えばしておったら人がこりを積むだろうと、言わば思いを詮索してみるとですね。ほんとに人がこり積むことは、もう自分には関係ない事のように思うておった。けれどもそうではない。ほんとに人にこりを積ませんですむ心掛け。そう言う思いを練るところにです、わたくしは心行があると思わして頂いた●。
世に三方様踏むな。三方様踏むと芽がつぶれると言う。言うならばあたくしどもも、小さい時から婆が言っておりました。かたやの上にこぼれたご飯でもなんでも、それこそ押し頂いて頂かにゃん。ね、それを踏んづけたりすると目がつぶれる。足が額月に付くと言いよりました。そげなこつしておるとね、足が額に引っ付く。と言うように三宝様と言う事は、もうこの世にもまれなまでの宝だという事、ね。
言うならばおかげが受けられる、お徳が受けられるその元である。なるほどその元を疎かにしたら、なるほど目がつぶれると言う事になるでしょうね。目がつぶれると言う事は、信心するものは肉眼をおいて心眼を開けと仰るがね。それこそ心眼が開ける段じゃあない。返って、うとうなって来たりね、目先の事だけしか分からなくなったりするに違いありません。
それほどしにです、⑧●例えばあたくしどもが真の幸福にならせて頂くためにはね、おかげを受けなけ、ねばならん。神様のおかげで立ち行かせて頂かなければならん。同時に神様の御信用、御神徳を受けなければならん。何が1番頂きたいかと。あたくしは夕べ休ませて頂きながら、ふとこんな、よくあのテレビなんかで、んー、「あなたにとってこれはどういうことですか?」と言ったようなことを申しますね。
それを「あなたにとって金光教とは何ですか?」と、皆さん問われたらどう答えられるでしょう?あなたにとって金光教とは何か。皆さん思うてみて下さい、ね。「あなたにとって言うなら金光教の信心とはなにか?」と、問われた時に皆さんどういうふうに答えられますでしょうか。あなたにとって金光教とは、もう唯一無二のあたくしにとっての宗教である。
どこにどう言う例えば素晴らしいおかげの受けられる神様が現われなさっても、恐らくもう絶対金光教から私は外れる事は出来ないだろう。もう絶対ね。もう絶対のものである。金光教とは。言うならその④●「信心はあなたにとってどのような事ですか?」と、問われたらあたしはどう答えるだろうかと自分で思うてね。信心は「金光様のご信心はあたしにとって命だ」とこう思うた。
そしたら、いや違う。命以上だと自分の心の中に答えた。そしたら涙が流れていた。あたくしにとって、お道の信心はもうあたしの命以上なのだ、ね。そこから私は本気でお道の信心を頂こう、体得させて頂こうと言う信心。言うならば迷いの起こらんですむ信心を、そのようにして固めてきたように自分で思うです●。
昨日のーおー、寒修行の御礼会の時に、んー、サザエを皆さんに頂いて頂いた。ちょうど、おー、お米が6升それから麦が2升5合ですから、8升5合炊いたそうです。そしてお菜が250できたそうです。ゴボウやらお漬物が付いてあったでしょう?それが250あったから、結局250名の方が、昨日は、あー、8升5合で足りたという、ちょーど良かった。
あたくしどもが下りた時がもう、おー、お菜はござい、もうなかったもんですから他の物で頂きましたが、もうそれから朝またバラバラ参ってこられる方たちを含めて、ちょうどおかげを頂いた。ほんとになんですね、なるほどお粥さんで、えー、食べ繋いできたと。けれどお北京時代から、んー、もうあのー、茶粥をまあ頂いて参りましたし、おかげで戦時中のしはい欠配の時にも、おかげでそのー、わざわざ特に闇の米を買わなくっても、お粥さんだけで過ごさせて頂くことができた。
同時にいよいよ修行が苛烈になってまいりましたら、んー、いよいよをもって、あのお粥さんのおかげで家族中の者が命を、まあ繋いできたわけです。ですからお客さんのない時には、必ず今でも茶粥を炊くことにしておりますけども、この頃毎日お客さんのない事がないです。だからお茶粥を炊く暇がないのです。だからもうほんとに年に1回のあの茶粥会の時に、いー、もうほんとにあの、頂き付けましたら美味しいです。
お米もたくさん、とにかく250名が8升5合ですむんですからね。というほどしにです、言うならば、あー、神様の御物を大切に、言うならば始末倹約もさせて頂かなければならん。今年こそ、いよいよいろんな意味でおかげを下さろうと言う中で、頂こうと言う姿勢を作るからにはです。例えばお金が欲しい人はです。やはり、お金に、お金の言うなら無駄遣いをせんようにね。
始末倹約ができるなら、できるだけ始末倹約をさせて頂かなければです。ただ下さるからと野放図に構えとったのではいけないと思うです。ほんとに金のおかげを頂きたいならば、金を粗末には使わん、無駄な事には使わん。でなかったら、下さった神様ががっかりなさります。やったばかりに贅沢するなら。ね。
ですから、あー、うーん、そういう意味でも1つ目細もう今年はやらせて頂こうと思います。今年は皆さんどうでも、おー、今日はあたくしの事を聞いて頂いたのですけれども、神様が下さろうと言うのであるから、本気で頂こう。そこでいよいよおかげの受け物をですね、作らなければならん。
これで良いということはない。考えてみると、ほんとに目の粗い事に驚くばかり。そこでです、例えば今までね、不平を言うたり不足に言うておるような事ではです。そのおかげの受け物を完璧にすることのための修行だと思うて、それを例えば辛抱さして頂くとです、辛抱さして頂くと、ただ辛抱だけではない。その後に頂けれる喜びが、また辛抱する楽しみを作ってくれる。
これはこの手で今年は言ったら良いなと思わしてもらう。同時にいつも言われておるところの、馬鹿と阿呆で道を開け。信心辛抱。またはこりを積むな。こりを積ますな、こりを積むなと言ったようなです。合楽の信心の芯と思われておったそういう信心の芯をです。もっともっと心行に繋がるものとして頂いて参りましたら、この45節を、おー、忠実に頂く事になると思います。
もう三宝様、言うならばおかげを受ける、お徳を受けるその元であるところの、その問題であり、事柄をです。そのようにして大切に頂くならばですね、恐らく目がつぶれることもあるまい、ね。または、言うなら頭を下げることを忘れるような事もあるまい。もちろん慢心などの出るすきも出るまい、ね。
油断をするとです、慢心と思っていないことが慢心であったり、油断をするとですね。もう実に育つ内容もそろうになってまいりまして、おかげの受けものがね、いよいよ粗末なことになってしまうのです。神様はね、大声で叱ったり、手を振り上げたりなさるようなことはないのですから、あたくしどもが楽な方へ走ろうとしますと、なんぼうでも楽な方へ行けれるのです。
それではね、いよいよ信心が、言うならば今年のまあ信心とでも申しましょうか。今年の1つの信心の願目にはずれることになりますから。慢心が出らんように。慢心が出らんようにと、思うておるだけでは慢心が出る。やはり、手前の所で言うならば地を低うする、ね。言わば自分がどれほど身代がでけたり、先生と言われるようになると頭を下げる事を忘れると言われるがね、どれほど自分が磨いていっておるかと言うことは、自分自身の周辺の細かい事柄にでも気づかしてもらえる。
三宝様を踏むようなことのないような心の状態にならせて頂くことこそが、私は地を低うして通らせて頂くことであるとね。まあ場合にはそれこそ慢心の出るくらいなおかげを頂きたい。これはほんとにそうです。と言うて言うなら慢心を出して良いと言うのではない。天は高いから頭を打つまいと思うけれどもと仰るように、頭を打ってからでは遅い。
今年はそういうあたくしはこの45節に、今日頂きますようなところを、しかもあたくしが昨夜から、昨日から昨夜にかけて、また今昼にかけて思わせて頂く事などを聞いて頂いたんですけども、皆さんの信心のご参考になればありがたいです。どうぞ。